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Mother Gooseの世界 そのじゅう マザーグースを育んできたイギリスの風土、その風景、気候
さて、『Mother Gooseの世界』と題してお伝えしてきて今回で10回目という区切りとなりましたが、マザーグースという素晴らしい文化遺産を語り伝え今なお児童文学、ファンタジーの優れた作品を産出し続けているイギリスという国が持つ特異性をその風土、自然のあり方に焦点を当てて皆さんにご紹介しこのシリーズの締めくくりとさせていただきたいと思います。
まずざっと児童文学、ファンタジーがヨーロッパで生まれてきた歴史背景を見ていきますと、古来よりの民間伝承をまとめた童話集としては17世紀末にフランス人ペローによって編纂されたペロー童話集があります。ディズニーアニメで定番となっているシンデレラや眠れる森の美女、そして赤ずきんの話などは広く知られていますね。そしてみなさんよくご存知のグリム童話(ドイツ)が1812年、アンデルセン童話(デンマーク)が1835年に初版が刊行されました。グリム童話は主にドイツに伝わる民族説話からなり、「ヘンゼルとグレーテル」や「ブレーメンの音楽隊」などは代表的な作品ですが、ペロー童話集と重なる「白雪姫」「シンデレラ」「赤ずきん」といった作品も集録されています。これに対しアンデルセン童話は作者アンデルセンの創作に基づくものが多く「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」「人魚姫」「おやゆび姫」「裸の王様」などこちらも子どもの頃から大変親しんできた作品ばかりですね。また、イギリスではご承知のとおり古くから伝承童謡として伝わっていたナーサリーライム(子どものための押韻詩)がマザーグースというキャッチコピーを得て世界中の英語圏の人々に広まっていく素地が出来上がっていました。”マザーグース”という言葉がペロー童話集が出されたときの副題”がちょうおばさんの話”から引用されたというのはこのコーナーでもご紹介しました。
こうした子供向け物語や押韻詩が古来より語り継がれてきたヨーロッパの文化風土を背景に18世紀後半の産業革命による技術革新が出版事業を格段に発展させたことで、特にイギリスでは多くの書物が出版され、海外の物語は英訳され、またこうした物語や詩に合った美しいイラスト、挿絵の文化が起こり、児童文学、そしてファンタジーの世界が一気に花開くこととなりました。
そして今日もなお優れたファンタジーを生み出し続けているイギリスですが、そこには他国にはないイギリス独自の文化風土、風景、気候が密接に関係していると言われています。日本の本州と同じくらいの小さな島国であるにも関わらずその国土は驚くべき多様性に富んだ風土、風景、気候に満ちています。イギリスでよく言われるのは一日で四季を味わえるというほどの変わりやすい天候で、霧や虹が発生しやすいことです。また各地に残る歴史を感じさせる古い建物や古い樹木も多く、空想的で非現実的な空気がそこらじゅうに満ちており、魔法や妖精や色々な超自然現象がより身近に感じられることが多くのファンタジー作家を魅了し優れた作品を生みだしてきたのだと思われます。英国の優れたファンタジーには「土地の霊」から霊感を得て書かれた作品が非常に多いと言われ、特定の土地の風土や歴史が背景として不可欠なのです。
余談ではありますが、イギリス人がお化け話が好きで幽霊が出るとされるパブやホテルが話題となったり、それを観光の目玉とさえしている話などを聞くと、こんなところにもイギリス人のファンタジーなスピリットが伺えますね。
日本も同様の小さな島国で四季があり自然豊かで独自の歴史文化を絶えることなく育んできたという点ではイギリスととても共通する風土と思いますが、イギリスの場合はその自然風土が日本の半分くらいの国土に驚くべき多様性と濃密性でもって凝縮されているのではないかと想像します。日本で言うと、例えば北海道釧路の湿地帯や道東の牧歌的な風景、知床の手つかずの大自然などがある一方で鹿児島の屋久島や沖縄のマングローブの密林、日本海側の断崖絶壁の風吹き荒ぶ風景など全く異なる自然が思い浮かびますが、そうしたものがイギリスでは日本の本州ほどの国土に全て詰まっているという感じでしょうか。
また、私たちはイギリスののどかな田園地帯や湖水地帯、丘陵地に散在する美しい村や町の風景に魅了されますが、『もののけ姫』に出てくるような苔に覆われた湿潤な山深い森の風景、あるいは各地で湧き出す温泉地、山の渓流の透き通る水の風景など高い山のないイギリス人にとっては新鮮な驚きであり魅了される人も多いと聞きます。
具体的にイギリスの風景を身近なところでご紹介しますと、ご存知のようにイギリスはイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドからなる連合国でそれぞれが独立した国のように独自の文化を育み独自の風景、気候を持ち、それは多様な生態系にまで及んでいます。
日本でも広く親しまれているピーター・ラビットで有名な湖水地方はイングランド北西部にあります。
ジブリ映画にはイギリス児童文学を原作とする作品が多くありますが、「思い出のマーニー」の舞台となる湿地帯はイングランド東部ノーフォーク州の河口を思わせます。ジブリ作品と言えば「ハウルの動く城」も「ファンタジーの女王」の異名を取るイギリス人作家ダイアナ・ウィン・ジョウンズの原作ですし、「借りぐらしのアリエッティ」も原作はイギリスですね。
また、近年大ヒットしたハリー・ポッターではロンドン周辺の人間界と魔法学校があるとされる山と峡谷、荒野のスコットランド北部ハイランズ地方が対象的に描かれています。
このほか、イギリスから生まれた児童文学・ファンタジーは、1719年の「ロビンソン・クルーソー」から始まって「不思議の国のアリス」、「ピーター・パン」、「ドリトル先生」、「くまのプーさん」、「メアリー・ポピンズ」、「パディントン」、「ホビット」、「チャーリーとチョコレート工場」、「ナルニア国物語」などアニメや実写で映画化され私たちにもよく知られたものだけでも枚挙に暇がなく、それぞれの作品の背景となっている土地が持つ特有の風土、風景、気候が作品と密接に関与しそれがイギリスの国民性や文化的特質をも表象していると言えるのです。
ちなみにイギリスの児童文学の世界では幼い子どもが両親から引き離され郊外の大きな屋敷に引き取られるというパターンがとても多く見られ、自分の居場所や過去とのつながりを失い孤独と喪失感からいかに過去とのつながりを取り戻し孤独を克服していくかがテーマとなっています。ここには小さい頃から子供部屋に囲いこまれ、子守役(nanny)に養育され親の存在が希薄であるというイギリスのアッパーミドルクラス(上層中産階級)に特有の家庭環境が関係していることが見られます。この点は日本とは大きく異なっていますね。
そして、孤独感に襲われながらもその古い屋敷の中でのできごと、それは時として不可思議なことが起こり、またその屋敷を取り囲む自然は美しい花園や田園であるかと思えば突如霧が立ち込めるような幻想的な世界であったり、まるで行く先を遮断するかのような沼地が存在したりと変幻自在に風景が変化します。そのような空想的で非現実的な空間の中で様々な経験や冒険、それは超自然現象的な経験や冒険でもあったりするのですが、それらを通して精神的・知的にも成長し孤独感から自立して新しい自分を発見していくという姿が描かれていくのです。イギリスの自然風土はこうした現実と非現実を行ったりきたりするファンタジーの世界を描くにはもってこいの風土を備えていると言えるんですね。
また、「不思議の国のアリス」も「思い出のマーニー」も「床下の小人たち」もすべて幼い少女が大人の少女へと自立していく過程が物語られています。その視点で見ると「千と千尋の神隠し」も幼いちょっとわがままな女の子だった千尋が様々な苦難を経験し、友情を知り、相手を想うことを知る大人の女性としての第一歩を踏み出していく様子が描かれているとも言えます。ジブリ作品の多くが幼い少女が主人公であることはいずれもこうしたテーマと関係があるのではないでしょうか。そしてそれはイギリス児童文学とも密接に関係しているように思えます。
さて、いかがでしたでしょうか。
最後に私事で恐縮ですが、筆者は一度だけイギリスを訪れたことがあります。ロンドンから北に300kmほど、ヨークという城壁に囲まれた歴史と文化に富んだ古い街を訪れたさい、街の中心地にある駐車場で車から降りようとしたときに突然現れた中年の女性からバス代をめぐんでくれと言われ分けがわからないまま持っていた小銭を分けてあげたという奇妙な体験をしました。そのときはもしかしてホームレス?と思ったのですが、その後現地で落ち合ったイギリス人から話を聞くとこの街で物乞いをするような人なんて見たことないし、ましてや女性なんてあり得ないと大変驚かれました。そして言われたのが、「初めて日本からやってきたから妖精にでもからかわれたんじゃない?」と。日本で言えば狐に化かされた、といったところでしょうか。
ある意味なんともイギリスらしい体験ができたと後になってひとり悦に入っている次第です。
それではこれにてマザーグースのシリーズは終わりとさせていただきます。長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。引き続き次回からもよろしくお願いいたします。
参考文献:映画の中のマザーグース( 鳥山淳子、スクリーンプレイ出版)、映画で学ぶ英語の世界(鳥山淳子、くろしお出版)、マザーグース・コレクション100(藤野紀男・夏目康子、ミネルヴァ書房)、大人になってから読むマザー・グース(加藤恭子、ジョーン・ハーヴェイ、PHP研究所)、マザーグースをたずねて(鷲津名都江、筑摩書房)、英語で読もうMother Goose(平野敬一、筑摩書房)、ファンタジーの大学(ディーエイチシー)、グリム童話より怖いマザーグースって残酷(藤野紀男、二見書房)、マザーグース1(谷川俊太郎・訳、講談社文庫)、マザーグース案内(藤野紀男、大修館書店)、不思議の国のマザーグース(夏目康子、柏書房)、マザーグースの唄(平野敬一、中公新書)、マザー・グースのイギリス(楠本君恵、未知谷)、マザーグース(藤野紀男、河出書房新社)、マザーグースのミステリー(藤野紀男、ミネルヴァ書房)、英国ファンタジーの風景(安藤聡、日本経済評論社)、ファンタジーと英国文化(安藤聡、彩流社)、ファンタジーと歴史的危機(安藤聡、彩流社)